今日、上司と仕事で移動中、私の後任に考えている人物の名前が出た。
それは、部内のエースの名前だった。
私が5年前、この会社に入った時、何となく彼の
バイタリティやコミニュケーション能力、アドリブ力、繊細さ
というものを目標にしていた。
私より7歳年上で、重要顧客を任され、30代で課長になった。
ここ数年は、私も負けないぐらいやっていたつもりだ。
部内を見渡して、その人なら、私のやっている仕事をこなしていく
絵が浮かんでくる。
「俺の抜けて穴はでかいだろう。」
そんなつもりは無かったし、そんな事を思うのはくだらないのだが、
私の心の中に少しは、こんないやらしい思いが、数ミリはあったのだろうか。
自分が必要とされなくなると思うと、一抹の寂しさを感じた。
この寂しさの原因について、ある人の話を思い出した。
私がビジネスを学んでいる人物の1人に、木坂健宣というマーケッターがいる。
彼は、人が幸せを感じる事について、こんな話をしていた。
人が感じる幸福には、
①個々人によって異なる主観的なものと、
②時代・文化を超えて多くの人が共通して感じる普遍的なものと、2種類ある。
①は例えば「辛いものを食べると幸せな気持ちになる。」といった類のもので
ある人は幸せを感じるが、ある人のとっては「辛いもの食べるなんて地獄だ。」
と、人が変われば、幸福を感じないといったものだ。
さて、②時代・文化を超えて多くの人が共通して感じる普遍的な幸福
・・・こんなものが世の中にあるのだろうか。
時はさかのぼり、数千年前古代ギリシア、アリストテレスは
こんな趣旨の言葉を残していたそうだ。
「自分の能力を全でを出しているとき、人は幸福を感じる。」
そして時代を超えて超えて、20世紀・・・
「夜と霧」の著作で知られるヴィクトール・フランクルは、アウシュビッツを
生き抜いた精神科医であった。
彼は、職業柄、自殺を考えている患者に接する局面を多く経験した。
そんな中、自殺を踏みとどまらせるために言葉を色々と考えることになる。
「世の中生きていれば、この先きっと楽しい事がありますよ。
だから、自殺なんてしたら損ですよ。」
・・・この言葉をかけると、ほとんど患者は自殺を踏みとどまらないそうだ。
そうしていくうち、フランクルは、多くの患者の自殺を踏みとどまらせる
言葉を見つけ出した。
それは、
「今あなたが死んでどうするんですか。
あなたを、あなたの力を必要としている人がいるんですよ。」
これら言葉こそ、②の時代・文化を超えて、多くの人が共通して感じる
普遍的な幸福の具体例だ。
この他にも、幸福に関して、古今東西このような趣旨の言葉は散見される。
あくまで、「どうやら普遍的らしい」といったレベルなのではあるが・・。
つまり人々は、自分の能力を全力で出し、人々に必要とされると
幸福を感じるのだ。
・・・この後、木坂氏の話は、「ニーズの多様化でモノが売れない」などと
言われている昨今であるが、このある種の普遍的な幸せにこそ、
人々の求めているものがあり、ビジネスのヒントがある、と展開されていく。
つい、感心した話だったので長々と書いてしまったが、
つまり、私の今日感じた「寂しさ」は、裏返せば、今まで会社に自分が
必要とされていた事に少なからずとも幸福を感じていたという事だ。
多くの日本のサラリーマンが、傍から見ればハードな仕事をこなしている。
これは、会社なり、家族なり、から必要とされる事の幸福を、原動力に頑張れているのだろう。
逆に、それを失ってしまった人は茫然自失とし、疲弊してくる。
自分の仕事に面白味を感じない人には、このマインドで
幾分か仕事を面白くする事ができるんじゃないだろうか。
さて、私の思考はここで止まってはいけない。
この多くの人が感じる幸福を提供できるビジネスをしなければならない。
今日は夜中まで思考してしまいそうだ。
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